| 1991年10月20日、秋季審査会に於いて初段を允許される。私がこの機会を頂く迄、10数年が経ってしまった。当時37歳、ハナエモリでマネージャー職を務めていた仕事盛りであった。
私の場合、空手を始めてから幾度となく挫折しかかっている。本来臆病な性格で殴る、蹴るなど大変な出来事なのでした。強くなりたいという一種憧れ願望もありましたが、身長172センチ、体重58キロとさほど恵まれた体躯でもありません。そんな私が空手を忘れられず現在まで続ける事が出来たのは、稽古の後の汗でした。その清々しい爽快な心持ちは決して忘れることは出来ないものでした。
昭和54年5月、その当時道場は地下駐車場一角にある会議室でした。私は三度く"らい恐る恐る見学に行きました。見学というと聞こえは良いのですが、覗き見です。稽古での気合とその熱気で体が熱くなったことを覚えています。気が付くと入門手続きを終えていたのです。まだその当時に着た、胸に「佐藤塾」という名前の入ってない道着を持っています。もちろん初心者用白帯も。記念すべき私の人格形成習練の第一歩でありましたから。後に知った事ですが、佐藤師範と私は同郷人であり、しかも隣町に住んでいらしたとのこと、今思えばやはり師とは運命的な出会いであったと思っています。
その後、1年間は学生生活最後の時期でもあり、アルバイトとともに汗を流しました。当時の稽古はそれは凄まじいものでした。基本全般から始まり、移動全般、これを繰返しその間に拳立て等の補強が加えられます。延々と2時間余。私選初心者は、駐車場が主に稽古場でした。たまにボーリング場の屋上での稽古もあり、足を引き摺りながら階段を登り降りした事は今でも鮮明に
覚えています。
私のときは不思議と師範稽古が多く、懐かしい、いわき弁の響きが心の安らぎでした。とにかく稽古は厳しくそして励まされた。学生生活最後の汗を流したのです。今迄継続出来た理由はたぶんこの時期に有ると思うのです。
そして最初の挫折。 私が就職した会社は、トップを走るファッション企業でした。昭和55年3月、社会人としてスタートしたのです。業種としては当時めずらしいイベントホールの運営管理、営業企画というものでした。ファッション業界全盛の幕開けの時期です。人手不足、時間本足、必然的に道場への足が遠のきはじめました。車の仮免許とともに停止状態になってしまいました。車の免許はそれ以来中途で終わっています。それから5年間、仕事に専念したのですが、体の中で何かが物足りないという渇望感が続き、再度勇気をもって道場の門をたたいたのです。
その折り、その後空手を継続する上で第二の出会いがありました。原田師範代との出会いです。入門当時は近寄りがたい大先輩。大変強いという記憶しかありませんでした。再入門を許され、大先輩指導の元、ふたたび汗を流し始めたのです。
道場がりっぱになって居りました。私もウェートトレーニング、ランニングなど果敢に取り入れ5級、4級、3級といただきました。特に3級審査に於いて師範より、「いつの間に強くなったの」と声をかけていただいた事は忘れられませんでした。その間、初の大会開催に当って師範代並びに諸先輩、後輩との交流が深められたことは、私にとって空手を通じて諸々を考え直すきっかけにもなり、又微力ながらも佐藤塾にほこりを持ち、自分なりに貢献させていただこうという思いを持った時期でもありました。
第1回ポイント&ノックアウト全日本空手道選手権大会の大成功の感激は、その思いをさらに確実なものになりました。そして2度目の挫折。私は1級受審の折り、緑帯に1回戦下段蹴りで続行不能という惨めな敗退を喫したのです。今迄にない屈辱でした。確かにこの時期、大変生活、仕事、精神面に於いて不安定な事もありましたが、それより中途半端な状態で臨んだ自分に嫌けを感じたのです。又、汗をかかなくなってしまったのです。唯一の救いは、たまにいただく師範代からの励ましの連絡でした。
「早く黒帯を取らないと」、とても重い響きでありました。そして、忘れもしない1991年4月22日第6回大会当日、この日が最後と意を決し私は会場に入りました。久々に会う諸先輩、後輩達に挨拶を済ませて常に大会で座る所定位置、師範の斜め後ろについたのです。「押忍」、静かに師範に一礼し、「大変お世話になりました」と心に眩いたその瞬間、くるりと師範が後をむかれ、私の方をのぞきこむ様に見られ、「ん、田中か、どうしたんだお前病人みたいな顔して大丈夫か」、と声をかけらたのです。押、押忍、一瞬見透かされたのかと思い口が吃ってしまったのでした。大会も無事終了し、なによりうれしかったのは森先輩が優勝された事でした。私は万感の思いを胸に会場を後にしたのです。
そして思わぬ出来事が続いたのです。数日後の夜、自宅に師範より電話をいただいたのです。
師、「田中か、田中、大丈夫? 大会の時、何んか人生につかれた様な顔してっから、お前らしくないよ、 田中、25日の夜、家に来ないか、皆来るからなべ作って食べさせっから元気つくぞっん」
田中、「押忍、師範自分の様な者がうかがっても宜しいのですか」
師、「馬鹿、この同じいわきだっぺ」
田中、「押忍、ありがとうございます。喜んでうかがいます」
師、「7時だかんな、じゃ待ってるよ」
田中「押忍、失礼いたします」
私は電話口にしばらく呆然と立っていました。自分の様な男を思って下さっていた。それに引きかえ、何んと自分の情けないことか。そして私は夢にまで見た師範宅の門を初めてくぐったのです。それまでに3度、私は門の前に立ち、どうしてもくぐる事が出来ない自分の姿を夢に見ていたのです。その夜、師範より昇段審査を受けるようにと
のお話しをいただき、午前3時ごろまでご馳走になり帰宅したのでした。私にとって一生涯忘れられぬ日になったのです。
翌日、師範代よりご連絡をいただき、夏季合宿後秋季審査会に於いて昇段を受審する事となったのです。私は思います。空手を通して何を学ぶのか、強さだけでは決してありません。佐藤塾理念である人間形成。それは「精力善用」「自他共栄」そして「信頼と感謝」、これら全てが和を創造すると。1991年10月20日、私は師範並びに師範代そして諸先輩、後輩、その他多勢の皆さんの和の中で受審をさせていただき、初段をいただきました。今後はこの理念の基に、佐藤塾で学ぶ後輩諸氏、又子供達にこの和を広げてゆきたいと思って居ります。
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