1946年4月、サハリン島で生まれる。翌年、家族が福島県Nakasoに移転、幼少時代から日本で過ごす。やがて東京に引越し、高校で柔道と出会い、大会の主力選手として頭角を顕わすようになる。 卒業後、共同通信社でジャーナリストして働く傍ら、夜は中央大学で勉学する。柔道のコーチとなって海外に柔道を広めることをめざしていた彼は、同時に、講道館と三鷹警察署で柔道の稽古に励んだ。

20才の時、膝と肩の怪我が原因で柔道を断念せざるを得なくなる。しかしそれが極真会館で空手をはじめるきっかけとなった。柔道で鍛えた体と武道精神によって、佐藤勝昭はわずか半年で茶帯を取得、一年で黒帯に昇段する。

佐藤勝昭の最初のデビュー戦は、1970年開催の極真会館第二回全日本空手道選手権であったが、その大会で優勝したKasuyuki Hasegawa選手の左上段回蹴りを顎に受け敗退する。この敗北をバネとして、翌年の第三回全日本選手権において、佐藤勝昭は優勝を飾る。

この時、当時の人気漫画「空手バカ一代」の中で、梶原一騎は佐藤勝昭を、空手界に挑戦した講道館の柔道家として描いた。悪役としてみなされることが多かった空手家達はこの漫画の描写を喜んだが、多くの人々がそこに描かれている事を真実として解釈したため、佐藤勝昭と柔道界に軋轢を生むことになった。

第一回世界空手道選手権の前、佐藤勝昭はアメリカに渡った。当時の稽古は、掴みや投げ技も許されていた(世界大会では禁じられた)。そのため、日本人の突きや蹴りの威力が十分でない場合、柔道の投げ技がしばしば有効であった。佐藤勝昭は、外人選手の荒々しい闘争心と戦い、抑圧し、空手発祥の地としての日本の名誉を守り、日本では日本人選手達に、外人選手に対するパワー面での劣勢をカバーする方法を教えた。

「柔道の稽古で身につけた筋力のおかげで、空手が強かった。そして柔道の技のおかげで世界レベルでも空手が通用した。」と、佐藤勝昭は述懐する。

世界大会後、佐藤勝昭は現役を引退し極真会館を辞める。何より、彼はファミリーで営む事業を支援しなければならなかった。しかし、周囲の人々から空手の教授を頼まれ、1977年、彼は東京三鷹市に佐藤塾を開く。

佐藤勝昭が極真会館を辞めたのは、世界チャンピオンというタイトルに満足したからではなく、道場を開いたのも、大規模に道場を拡大することが目的ではなかった。空手家としての名声を私欲のために用いる意図は佐藤勝昭になく、無私を貫くのが彼の生き方であった。

格闘技と安全は、矛盾する概念である。安全を協調しすぎる試合は、格闘技としての徹底を欠く。一方、真の格闘技を追求するなら安全を欠く。格闘技と安全の間に妥協点を見出すことは難しい。

しかしながら、掴んでの攻撃、反復的な下段蹴り、その他重大な障害を与える攻撃を禁止することにより、格闘技としての徹底を満たしながら、ある種の安全を留保することは可能であった。「ポイント&KO」として知られる佐藤塾のトーナメントルールは、高精度な空手のスタイルを育てあげるために考案された。 人々の秘める未知なる可能性を引き出すため、佐藤勝昭は、若者と指導員達への指導と助言に没頭している。柔道の創設者である加納治五郎の言葉「精力善用」「自他共栄」、そして「信頼と感謝」は、彼の道場に掲げられている。