貧乏御家人の家に生まれた勝海舟は16歳の頃から従兄弟にあたる剣聖男谷精一郎の一番弟子、島田虎之助の道場に住み込みで剣の修業に打ち込んだ。天保・弘化の時代、天下の剣豪と称せられた三人の中の一人で、もう一人は島田の師である男谷精一郎そして大石進であった。
その島田は勝海舟に「心魂を練り、真の剣の道修めるよう!」と厳しく稽古と参禅を勧めた。当初は百人以上居た参禅者も一人減り五人減り、最後は海舟一人となる。
明け方まで王寺権現の庭で黙想と木刀の素振り繰り返し、帰ってからは朝稽古と休む暇なく海舟は何年も続けたという。
島田虎之助は海舟に「大事に直面しても少しも臆することのないように、また、いずれ剣術などはに立たぬ時代がくるだろう。しかし、男として大事に臆せぬ心はどの時代にももっとも大切なことである。その心を納めるのが真の剣の道である。」と言った。
海舟は16歳から21歳までこの虎之助の道場で猛稽古に禅の修行に励み免許皆伝をもらった。また、海舟は虎之助に蘭学の重要さを説かれ剣道と平行して勉学に励んだ。いわゆる文武両道である。やがて、塾を開き幕府においても重要視され長崎では海軍伝習、遣米使節でも艦長として渡米、そして老中まで上り詰め江戸城の無血開城である。日本が内乱に陥ることを防ぎ欧米列強からの植民地支配をも防いだことは言うまでも無く今日の日本の繁栄を導いた最大の功労者である。
海舟は氷川清話の中に「俺が本当に修行したのは剣術ばかりだ。この剣術と参禅修行が俺の土台となって後年大層ためになった。多くの刺客に狙われたり、九死に一生を得るような時を幾度も経験したが、一度も刀を抜いたことはなかった。」とある。
海舟が没して約1世紀、今日の日本をどう見ているであろうか。
幕末や明治の人々の努力と勤勉さが世界未曾有の経済発展を遂げた日本を作った。しかし、今物がありあまり、物質的な豊かさの影で精神面においてあの頃の日本の面影はなく、世界から軽く見られるようになってしまった。この様な日本を海舟は墓の下で嘆いていることであろう。
しかし、今生きる者として嘆いてばかりはいられない。今の私にいったい何ができるのであろうか。と考えると、幸いにも武道としての空手を指導している。自分自身、武道家としてまだまだ未熟ではあるが日々の研鐙は無論のこと、次代の日本を背負って立つ青少年の踏み台として、心・精神の部分を支え送り出せればと考えております。次代の海舟を送り出せるその日を信じ武の道を真蟄に生きていくことだけです。
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